2013年09月30日
いまでしょ!!
座禅70日目。滝行14日目。
朝起きて外を見たら雨が降ったようで道が濡れていました。最近の天気ってホント読めない。突然大雨が降ったり、夏のような日差しが照りつけたり。桜島も活動が活発で降灰は止みそうにもありません。
今日の滝は猛爆でした。ここのところ比較的穏やかな水量だったのですが、今朝の雨のせいでしょうか、久々に台風のような勢いでした。水温はそれほど低く感じなかったものの、滝から出た後にちょっとふらふらする。帰りの道でも頭がキンキンするので水温は相当低くなっているのでしょう。帰り道の彼岸花がきれいでした。
世の中を見ると今が苦しいと思っている人が多いようです。周りを見ても楽に生きている人ってほとんどいません。ただ、長い目で見たら苦しいというのは間違い。それは本当は貴重な経験なのです。
なぜなら、物事は必ず流れて変わって行き、終わる時が来るからです。
人生終わるときには走馬燈のように人生を早回しで見ると言われています。後から早回しの映像で見た時、苦しかった時が自分にとって一番大切で、貴重で、有り難い時だったのが分かります。そしてその時の自分が一番輝いていたことも知ります。
私は物心ついた頃から周りをよく観察する子どもだったようです。特定のことに没頭しないので周りからは変わっていると思われていたようです。他の子が夢中に遊んでいるときもまわりからそれを見ていたり、家の前に咲いてあった紫陽花の花をよく眺めていました。

ただ、小さいときの景色を見ていた自分と今の自分は心はまったく同じ。成長も退化もしていない、まったく同じ状態。今の社会の知識と垢が身についただけであり、生活の景色を眺めている自分の心は不変で一定。
心とは、成長も退化もしない一定不変なもの。
だから今の自分の状態をただ眺めましょう。もし今が苦しければ自分の永遠不滅な心でもって静観をしましょう。
この世のどんな刺激も自分の心を傷付けることは絶対に不可能です。傷つけているのは自分自身の自我。傷ついているのも自分自身の自我。だから絶対大丈夫。
逆に静観して見届けてやればいいだけです。すべてが必ず良い思い出に変わります。
生きる時間は短く必ず終わりが来ます。この世の苦しみや楽しみ、悲しみ、ハラハラドキドキこそが期間限定の宇宙からの貴重なプレゼント。
醒めた目でいましょう。今の自分を大切にしましょう。
朝起きて外を見たら雨が降ったようで道が濡れていました。最近の天気ってホント読めない。突然大雨が降ったり、夏のような日差しが照りつけたり。桜島も活動が活発で降灰は止みそうにもありません。
今日の滝は猛爆でした。ここのところ比較的穏やかな水量だったのですが、今朝の雨のせいでしょうか、久々に台風のような勢いでした。水温はそれほど低く感じなかったものの、滝から出た後にちょっとふらふらする。帰りの道でも頭がキンキンするので水温は相当低くなっているのでしょう。帰り道の彼岸花がきれいでした。
世の中を見ると今が苦しいと思っている人が多いようです。周りを見ても楽に生きている人ってほとんどいません。ただ、長い目で見たら苦しいというのは間違い。それは本当は貴重な経験なのです。
なぜなら、物事は必ず流れて変わって行き、終わる時が来るからです。
人生終わるときには走馬燈のように人生を早回しで見ると言われています。後から早回しの映像で見た時、苦しかった時が自分にとって一番大切で、貴重で、有り難い時だったのが分かります。そしてその時の自分が一番輝いていたことも知ります。
私は物心ついた頃から周りをよく観察する子どもだったようです。特定のことに没頭しないので周りからは変わっていると思われていたようです。他の子が夢中に遊んでいるときもまわりからそれを見ていたり、家の前に咲いてあった紫陽花の花をよく眺めていました。

ただ、小さいときの景色を見ていた自分と今の自分は心はまったく同じ。成長も退化もしていない、まったく同じ状態。今の社会の知識と垢が身についただけであり、生活の景色を眺めている自分の心は不変で一定。
心とは、成長も退化もしない一定不変なもの。
だから今の自分の状態をただ眺めましょう。もし今が苦しければ自分の永遠不滅な心でもって静観をしましょう。
この世のどんな刺激も自分の心を傷付けることは絶対に不可能です。傷つけているのは自分自身の自我。傷ついているのも自分自身の自我。だから絶対大丈夫。
逆に静観して見届けてやればいいだけです。すべてが必ず良い思い出に変わります。
生きる時間は短く必ず終わりが来ます。この世の苦しみや楽しみ、悲しみ、ハラハラドキドキこそが期間限定の宇宙からの貴重なプレゼント。
醒めた目でいましょう。今の自分を大切にしましょう。
2013年09月27日
知人の自殺
今日は夕方から妻がお通夜に行くということでバタバタ。子どもを実家に預けて食事の準備をして着替えて出かけていきました。妻の友人が亡くなったそうです。しかも自死・・・。20代後半。はやすぎる・・・。妻の高校時代の友人ということで第一報を聞いたときは妻はさすがにショックを受けていました。他の友人に色々話を聞いたら動機はいろいろあったそう。人間関係、仕事、家族・・・どれもうまくいってなかったそうです。人生これからだったのに。
昨日まで元気だった人が今日はいない。頭で分かってもなんか感覚で理解できない。日本全体で毎年三万人以上が自殺している状況。人生に見切りをつけたくなる理由なんて考えたらいくらでも出てきます。何をやってもうまくいかない、みんな幸せそうに見える、こんな人生じゃなかった、今まで頑張ってきたのに報われない、人生の負け組、仕事を失う、配偶者を失う・・・。
幸せそうにしていてもみんな心に闇を抱えているものです。死にたくなるときって誰にでもあるんじゃないでしょうか。朝テレビで東京とかの通勤の映像を見ているとよくそんなことを考えます。数え切れないくらいのたくさんの人がみんな無表情でサッサと歩いて行く光景。他人には目もくれない。感情のないロボットに見えます。でもその人たちも必死に毎日を生きている。本当は辛いけど表面上楽しそうにして何とか持ちこたえている人もいる。少し話したら泣き出してしまいそうな辛いことを抱えている人もたくさんいる。

釈迦は、この世は生老病死をはじめとする苦しみと悩みで満ちていると考えました。いわゆる四苦。ほかにも、愛するものと分かれる苦しみ(愛別苦離)、憎いものと出会う苦しみ(怨憎会苦)、求めても得られない苦しみ(求不得苦)、煩悩の苦しみ(五陰盛苦)等々、この世はいろいろな苦しみに満ちています。 生老病死とあわせてこれらを「四苦八苦」といいます。
釈迦の言うとおりこの世は辛いことばかり。逃げたくなるようなことはたくさんあります。いっそ死んで楽になりたいと思ったこと誰にでもあると思います。自分もそんなことを考えたことがあります。
ただしこの世は相対的な世界であるのも忘れないでいてほしい。一方だけなんてあり得ない。コインには表と裏がある。昼もあれば夜もある。嫌なこともあるが楽しいこともある。辛いこともあるがうれしいこともある。だから私たちは生きていける。両面あるから私たちは生きていけるんです。
両面を見ることなく否定的な一面だけをみていると人生辛すぎて生きることなんてできません。俯瞰してバランスよく両面を見て楽しい方向に意識をシフトさせてほしい。アンテナ貼って周りを見れば幸せだなあって感じることはそこらにころがっているものです。ほんのささやかな喜びでもそれが生きる力になる。それらに気づくアンテナをしっかり張っているかどうか。
この世は相対性の世界。辛くて辛くて死んでしまいたいと思う人がいる一方で生きたい、生きていたいと切望する人も確かにいるんです。
「しゅんしゅん」というひとりの男の子のお話。
しゅんしゅんは大人になるのが夢でした。しゅんしゅんは目の裏側、脳の前頭葉の部分にできるガンで摘出が不可能でした。放射線治療も間に合わず、とうとう目が変形してしまいました。
親は夕方になるとカーテンを閉めます。反射してしゅんしゅんの顔が写らないようにするためです。部屋の中のありとあらゆる鏡は撤去しています。それでもある日看護婦さんが持っている手鏡を見つけたしゅんしゅんは、その手鏡で自分の変形した目を見てしまいます。看護婦さんもうっかりしていたのでしょう。でもしゅんしゅんは笑って看護婦さんにこう言ったそうです。
「この鏡を見てしまったことはママには内緒にしてね」。
ある日、いつもは聞き分けのいいしゅんしゅんが、お母さんに何度も何度もぐずったそうです。
ねぇ、ママ。僕の病気は治るの?僕は大人になってお巡りさんになりたいよ。なれるよね?
「僕、おとなになりたい!」
そう言って泣いた翌日、彼は天使になりました。しゅんしゅんは自分の最後を魂のどこかで感じ取っていたのかもしれません。両親の慟哭、嘆き悲しみようは尋常ではありませんでした。人一倍やさしかったあの子がなぜこんなに苦しんで死ななければならなかったのか。
わが子に先立たれる親の悲しみほど辛いものはない。
月並みな言葉かもしれない。でもどんなに現状が辛くても生き抜いてほしい。死を考える人の苦しさは想像を絶するものだと思います。つらくてつらくてどうしようもないときもある。死にたくなるときもある。誰も代わってあげることができない。重荷を取り除いてあげることもできない。でもそれでも言いたい。死なないで生きて欲しいと。
全ての人の人生は肯定的意図によって存在していることを信じてほしい。よくないこともきついこともずっと続く訳じゃない。つらいこともあれば喜びもある。泣きたいことがあっても笑えることもたくさんある。すべては素晴らしい最後、フィナーレへ行く道程。辛いところで人生を終えてしまったら一番楽しい歓喜の瞬間を逃してしまう。もったいないじゃないですか。
人生はジェットコースターみたいなもの。途中どんなに曲がりくねっていても最後まで味わって味わって味わい尽くす。そして最後に「ああ、楽しかったなあ」といえれば最高。途中がすごければすごいほど最後には笑えるものです。ジェットコースターがゴールしたらみんなすごい顔してるけど、笑ってるでしょ。途中がすごければすごいほど笑いがこみ上げてくる。あの瞬間のために私たちは生きている。
「あー、すごかったね」
「楽しかったあ、もう一回やろう」
人生を途中で降りないでください。目をつぶってもいい、下を向いてもいいから生きて一緒にゴールしましょう。ゴールしてお互いのひどい顔を見て一緒に笑いあえたら最高です。

昨日まで元気だった人が今日はいない。頭で分かってもなんか感覚で理解できない。日本全体で毎年三万人以上が自殺している状況。人生に見切りをつけたくなる理由なんて考えたらいくらでも出てきます。何をやってもうまくいかない、みんな幸せそうに見える、こんな人生じゃなかった、今まで頑張ってきたのに報われない、人生の負け組、仕事を失う、配偶者を失う・・・。
幸せそうにしていてもみんな心に闇を抱えているものです。死にたくなるときって誰にでもあるんじゃないでしょうか。朝テレビで東京とかの通勤の映像を見ているとよくそんなことを考えます。数え切れないくらいのたくさんの人がみんな無表情でサッサと歩いて行く光景。他人には目もくれない。感情のないロボットに見えます。でもその人たちも必死に毎日を生きている。本当は辛いけど表面上楽しそうにして何とか持ちこたえている人もいる。少し話したら泣き出してしまいそうな辛いことを抱えている人もたくさんいる。

釈迦は、この世は生老病死をはじめとする苦しみと悩みで満ちていると考えました。いわゆる四苦。ほかにも、愛するものと分かれる苦しみ(愛別苦離)、憎いものと出会う苦しみ(怨憎会苦)、求めても得られない苦しみ(求不得苦)、煩悩の苦しみ(五陰盛苦)等々、この世はいろいろな苦しみに満ちています。 生老病死とあわせてこれらを「四苦八苦」といいます。
釈迦の言うとおりこの世は辛いことばかり。逃げたくなるようなことはたくさんあります。いっそ死んで楽になりたいと思ったこと誰にでもあると思います。自分もそんなことを考えたことがあります。
ただしこの世は相対的な世界であるのも忘れないでいてほしい。一方だけなんてあり得ない。コインには表と裏がある。昼もあれば夜もある。嫌なこともあるが楽しいこともある。辛いこともあるがうれしいこともある。だから私たちは生きていける。両面あるから私たちは生きていけるんです。
両面を見ることなく否定的な一面だけをみていると人生辛すぎて生きることなんてできません。俯瞰してバランスよく両面を見て楽しい方向に意識をシフトさせてほしい。アンテナ貼って周りを見れば幸せだなあって感じることはそこらにころがっているものです。ほんのささやかな喜びでもそれが生きる力になる。それらに気づくアンテナをしっかり張っているかどうか。
この世は相対性の世界。辛くて辛くて死んでしまいたいと思う人がいる一方で生きたい、生きていたいと切望する人も確かにいるんです。
「しゅんしゅん」というひとりの男の子のお話。
しゅんしゅんは大人になるのが夢でした。しゅんしゅんは目の裏側、脳の前頭葉の部分にできるガンで摘出が不可能でした。放射線治療も間に合わず、とうとう目が変形してしまいました。
親は夕方になるとカーテンを閉めます。反射してしゅんしゅんの顔が写らないようにするためです。部屋の中のありとあらゆる鏡は撤去しています。それでもある日看護婦さんが持っている手鏡を見つけたしゅんしゅんは、その手鏡で自分の変形した目を見てしまいます。看護婦さんもうっかりしていたのでしょう。でもしゅんしゅんは笑って看護婦さんにこう言ったそうです。
「この鏡を見てしまったことはママには内緒にしてね」。
ある日、いつもは聞き分けのいいしゅんしゅんが、お母さんに何度も何度もぐずったそうです。
ねぇ、ママ。僕の病気は治るの?僕は大人になってお巡りさんになりたいよ。なれるよね?
「僕、おとなになりたい!」
そう言って泣いた翌日、彼は天使になりました。しゅんしゅんは自分の最後を魂のどこかで感じ取っていたのかもしれません。両親の慟哭、嘆き悲しみようは尋常ではありませんでした。人一倍やさしかったあの子がなぜこんなに苦しんで死ななければならなかったのか。
わが子に先立たれる親の悲しみほど辛いものはない。
月並みな言葉かもしれない。でもどんなに現状が辛くても生き抜いてほしい。死を考える人の苦しさは想像を絶するものだと思います。つらくてつらくてどうしようもないときもある。死にたくなるときもある。誰も代わってあげることができない。重荷を取り除いてあげることもできない。でもそれでも言いたい。死なないで生きて欲しいと。
全ての人の人生は肯定的意図によって存在していることを信じてほしい。よくないこともきついこともずっと続く訳じゃない。つらいこともあれば喜びもある。泣きたいことがあっても笑えることもたくさんある。すべては素晴らしい最後、フィナーレへ行く道程。辛いところで人生を終えてしまったら一番楽しい歓喜の瞬間を逃してしまう。もったいないじゃないですか。
人生はジェットコースターみたいなもの。途中どんなに曲がりくねっていても最後まで味わって味わって味わい尽くす。そして最後に「ああ、楽しかったなあ」といえれば最高。途中がすごければすごいほど最後には笑えるものです。ジェットコースターがゴールしたらみんなすごい顔してるけど、笑ってるでしょ。途中がすごければすごいほど笑いがこみ上げてくる。あの瞬間のために私たちは生きている。
「あー、すごかったね」
「楽しかったあ、もう一回やろう」
人生を途中で降りないでください。目をつぶってもいい、下を向いてもいいから生きて一緒にゴールしましょう。ゴールしてお互いのひどい顔を見て一緒に笑いあえたら最高です。

2013年09月24日
幸せローリングストーンズ
座禅67日。滝行12日目。
今日は滝に行く途中である夫婦に出会いました。普段人が来るような場所じゃないので誰かに出会うと一瞬かなりビックリします。山歩きをされているようでそういう服装をされていました。私の方が道に詳しいんですが、「こっちは道がほとんどないですよ」と教えてくださいました。聞けば横浜から鹿児島に観光で来られたとのこと。近くにわき水があるようで水をくんで帰られました。さわやかな夫婦。夫婦で山歩きを楽しむなんて素敵だなあって思ってしまいました。

そのあとは家族でメルヘン館に行ってつかの間の童話の世界を楽しみました。初めて館内に入ったのですが子どもが楽しめるような場所がたくさんあって3歳のゆうは大はしゃぎ。裸足であっちいったりこっちいったり昇ったり降りたり・・・。1時間半ひたすら動き回って十分満喫したようでした。ママは横の喫茶店で8ヶ月の娘と休憩。ママも普段は子育てフル稼働なので、ゆったりした時間を過ごせてあげれてよかった。
夕方、日が沈んだ頃を見計らってゆうと車で公園へ。まだ暑い中滑り台をしたりブランコに乗ったり砂遊びしたり。子どもと一緒に遊べるって幸せです。昔は自分が小さな子どもと一緒に遊ぶなんて想像したこともありませんでした。身近に子どもがいなかったせいか子どもとどう接していいか分からない。ましてや自分に子供が生まれるなんて想像もできない。実際子供が生まれても何をどうしたらいいのかどう接していいかさっぱり分からない。今はすっかり慣れましたが。変われば変わるものですね。
休みの日はいつも家族とで過ごすので、「家族サービスしてえらいですね」とかよく言われます。でも自分は好きでやっている。全然苦じゃない。子どもの笑顔って本当に素敵だし癒されます。子どもがブランコに乗れたり、ジャングルジムに昇れたりこの前までできなかったことができると本当に嬉しい。成長ってすごい。3歳の息子が「よいしょ、よいしょ」と昇っていく後ろ姿。「パパちゃんこっちー」と言って走っていく後ろ姿。なぜか涙が出てきます。この涙、何でしょうね。
日も暮れて「そろそろ帰ろうか」というと「友だちいなくなったね」と言いながら滑り台に「バイバーイ」。一緒に手をつないで公園をあとにしました。

家に帰ったらテーブルに豪華な料理とシャンパン、ケーキ。「どうしたん?」と聞いたら「今日は結婚記念日でしょ」。しまった。すっかり忘れていた。でも忘れていたことに嫌みを言うわけでもなくしっかりと準備をしてくれていて感動。本当にいい妻。いい家族。自分は最高に幸せ者。この瞬間のために自分は生きている。この瞬間があるから自分は生きていける。これからも一緒にたくさん笑おう。一緒にたくさん泣こう。共に生きていける喜びをかみしめよう。みんな愛しているよ。

今日は滝に行く途中である夫婦に出会いました。普段人が来るような場所じゃないので誰かに出会うと一瞬かなりビックリします。山歩きをされているようでそういう服装をされていました。私の方が道に詳しいんですが、「こっちは道がほとんどないですよ」と教えてくださいました。聞けば横浜から鹿児島に観光で来られたとのこと。近くにわき水があるようで水をくんで帰られました。さわやかな夫婦。夫婦で山歩きを楽しむなんて素敵だなあって思ってしまいました。

そのあとは家族でメルヘン館に行ってつかの間の童話の世界を楽しみました。初めて館内に入ったのですが子どもが楽しめるような場所がたくさんあって3歳のゆうは大はしゃぎ。裸足であっちいったりこっちいったり昇ったり降りたり・・・。1時間半ひたすら動き回って十分満喫したようでした。ママは横の喫茶店で8ヶ月の娘と休憩。ママも普段は子育てフル稼働なので、ゆったりした時間を過ごせてあげれてよかった。
夕方、日が沈んだ頃を見計らってゆうと車で公園へ。まだ暑い中滑り台をしたりブランコに乗ったり砂遊びしたり。子どもと一緒に遊べるって幸せです。昔は自分が小さな子どもと一緒に遊ぶなんて想像したこともありませんでした。身近に子どもがいなかったせいか子どもとどう接していいか分からない。ましてや自分に子供が生まれるなんて想像もできない。実際子供が生まれても何をどうしたらいいのかどう接していいかさっぱり分からない。今はすっかり慣れましたが。変われば変わるものですね。
休みの日はいつも家族とで過ごすので、「家族サービスしてえらいですね」とかよく言われます。でも自分は好きでやっている。全然苦じゃない。子どもの笑顔って本当に素敵だし癒されます。子どもがブランコに乗れたり、ジャングルジムに昇れたりこの前までできなかったことができると本当に嬉しい。成長ってすごい。3歳の息子が「よいしょ、よいしょ」と昇っていく後ろ姿。「パパちゃんこっちー」と言って走っていく後ろ姿。なぜか涙が出てきます。この涙、何でしょうね。
日も暮れて「そろそろ帰ろうか」というと「友だちいなくなったね」と言いながら滑り台に「バイバーイ」。一緒に手をつないで公園をあとにしました。

家に帰ったらテーブルに豪華な料理とシャンパン、ケーキ。「どうしたん?」と聞いたら「今日は結婚記念日でしょ」。しまった。すっかり忘れていた。でも忘れていたことに嫌みを言うわけでもなくしっかりと準備をしてくれていて感動。本当にいい妻。いい家族。自分は最高に幸せ者。この瞬間のために自分は生きている。この瞬間があるから自分は生きていける。これからも一緒にたくさん笑おう。一緒にたくさん泣こう。共に生きていける喜びをかみしめよう。みんな愛しているよ。

2013年09月23日
絞首台の笑い
座禅66日目。滝行11日目。
今日も夏に戻ったかのような天気。鹿児島の夏は長い。毎日暑さと灰でまいります。雨が少ないからか今日の滝は比較的穏やか。気温は高いにもかかわらず水温はそれほど高くはない。季節はやっぱり秋なんです。
先日友人とスタバで話し込んでいた時のこと。話の流れである悩み事を相談されました。
彼女は不眠症を昔から患っていて精神安定剤を毎日服用している。でも最近つい多めに飲んでしまう。頭が痛いときとかイライラしているときに飲むと症状が収まるのでついつい飲んでしまう。ここ2週間で100錠ほど飲んでいる。いくらなんでも多すぎるのは自分でもわかる。だけどやめられない。どうしたらいいのかというもの。

けっこう深刻な話。頭の中で解決方法をいろいろ考えたのだがその前にどうしても気になることが。
それは彼女の笑顔。
彼女、話をしながら時々笑うんです。笑うような話ではないのに。
命にかかわるような深刻な話なので真剣に聞いていたが、時々くすっと笑うのがどうしても気になった。
そして彼女の笑いを見て思い出したことがひとつ。
「絞首台の笑い」。
ひどい目にあったり大変な状況におかれていたり、本来笑うような話ではないのに笑いながら話すことを「絞首台の笑い」という。
楽しくて笑っているのではなく自虐的な笑い。話しながら笑っているものの目は笑っていない。
それにはちゃんと目的がある。自分を笑いものにすることで場を取り持ったり、その笑いにつられて周りも笑うことで自己否定的な気持ちを再確認したり。あまりに悲惨な状況から自分の感情にふたをしてしまい笑いにごまかす場合もある。
そういえば過去に虐待に近い経験を話しているのに笑いながら話している人もいました。
いずれにしても過去に経験した深い怒りや悲しみ・悔しさなどを潜在意識化に抑えてしまっている状態。
カウンセリングではないので深くは追及しませんでしたが、よほど大変なことを経験してきたんだなあと思いました。
振り返ってみると自分もけっこう笑ってごまかすこともありました。本当はつらいのに表面上は楽しくしているふりをしていることもよくありました。意外と多くの人が持っている笑いなのかもしれません。
でもどうせ笑うなら素敵な笑顔がいいですよね。
いい笑顔をしたかったら自分の感情と向き合うことが大切です。過去も含めた自分の感情に正直にならないといけない。過去の感情がきちんと処理されていればそんなややこしい笑いは出てこない。
感情って本来は直球ストレート。でもあまりにつらいことがあってそれに耐えることができないと人は悲しみや怒り・悔しさを心の奥底・潜在意識に閉じ込めてしまう。自分を守るために。
友人にはこの話をしてみました。相変わらず笑って聞いていました。でも目は笑っていなかったのできっと心の奥に突き刺さったはず。
きっと薬の量も減ることでしょう。
今日も夏に戻ったかのような天気。鹿児島の夏は長い。毎日暑さと灰でまいります。雨が少ないからか今日の滝は比較的穏やか。気温は高いにもかかわらず水温はそれほど高くはない。季節はやっぱり秋なんです。
先日友人とスタバで話し込んでいた時のこと。話の流れである悩み事を相談されました。
彼女は不眠症を昔から患っていて精神安定剤を毎日服用している。でも最近つい多めに飲んでしまう。頭が痛いときとかイライラしているときに飲むと症状が収まるのでついつい飲んでしまう。ここ2週間で100錠ほど飲んでいる。いくらなんでも多すぎるのは自分でもわかる。だけどやめられない。どうしたらいいのかというもの。

けっこう深刻な話。頭の中で解決方法をいろいろ考えたのだがその前にどうしても気になることが。
それは彼女の笑顔。
彼女、話をしながら時々笑うんです。笑うような話ではないのに。
命にかかわるような深刻な話なので真剣に聞いていたが、時々くすっと笑うのがどうしても気になった。
そして彼女の笑いを見て思い出したことがひとつ。
「絞首台の笑い」。
ひどい目にあったり大変な状況におかれていたり、本来笑うような話ではないのに笑いながら話すことを「絞首台の笑い」という。
楽しくて笑っているのではなく自虐的な笑い。話しながら笑っているものの目は笑っていない。
それにはちゃんと目的がある。自分を笑いものにすることで場を取り持ったり、その笑いにつられて周りも笑うことで自己否定的な気持ちを再確認したり。あまりに悲惨な状況から自分の感情にふたをしてしまい笑いにごまかす場合もある。
そういえば過去に虐待に近い経験を話しているのに笑いながら話している人もいました。
いずれにしても過去に経験した深い怒りや悲しみ・悔しさなどを潜在意識化に抑えてしまっている状態。
カウンセリングではないので深くは追及しませんでしたが、よほど大変なことを経験してきたんだなあと思いました。
振り返ってみると自分もけっこう笑ってごまかすこともありました。本当はつらいのに表面上は楽しくしているふりをしていることもよくありました。意外と多くの人が持っている笑いなのかもしれません。
でもどうせ笑うなら素敵な笑顔がいいですよね。
いい笑顔をしたかったら自分の感情と向き合うことが大切です。過去も含めた自分の感情に正直にならないといけない。過去の感情がきちんと処理されていればそんなややこしい笑いは出てこない。
感情って本来は直球ストレート。でもあまりにつらいことがあってそれに耐えることができないと人は悲しみや怒り・悔しさを心の奥底・潜在意識に閉じ込めてしまう。自分を守るために。
友人にはこの話をしてみました。相変わらず笑って聞いていました。でも目は笑っていなかったのできっと心の奥に突き刺さったはず。
きっと薬の量も減ることでしょう。

2013年09月21日
風邪の効能
座禅65日目。
昨日は朝から喉が痛くて大変でした。次第に熱も上がって昼過ぎにはぐったり。身体が動かない。リポデーとか飲んでなんとか業務をこなし夕方にはバタンキュー。4時間くらい死んだように寝たら少しすっきりしました。
もともとは3歳の長男からもらった風邪。うつされないように注意していたんですが、だっこしたり一緒に遊べばやっぱりうつります。
私の風邪はけっこう長引くことが多い。3連休は家でじっと過ごすのかなあかとか考えていましたが、ぐっすり寝たら意外と元気なのでほっとしています。これも滝行の効果かも。
小さい子がいる家庭ってこういう時は大変です。誰かが風邪を引くと家族みんなにうつる。我が家の発信源は3歳のゆう。ゆうが風邪を幼稚園でもらってきて、それを9ヶ月の妹にをうつし、その後母親にうつす。私にはうつらないと根拠もなく思っていたのですが最後の最後に私も発症。結局家族全員風邪をひきました。

よりよく生きるための重要な考え方に肯定的意図というのがあります。起きること全てに肯定的意図があるという考え方。一見すると良くないことであっても、そこには必ず肯定的な意味がある。現象だけをみればマイナスにしか見えなくても全体的・全宇宙的に見れば肯定的な意図が必ずある。宇宙の計らいとか神の意図とでも言うべきものがあるという考え方。
そこから考えると私が風邪を引いたのもきっと何かのサイン。「この状態にはどんな肯定的意図があるんだろう」と考えているとまずは最近の激務が頭をよぎりました。ここのところ仕事やら何やらにハードに追われる日々。こなす割には仕事が減らず逆に増える始末。ちょっとバテ気味でした。要するに「頑張りすぎだからちょっと休め」ということだったのでしょう。ちょうど身体を壊す前に休まないとなあと思っていたところでした。
物事が良くなる前には一時的に悪くなることがある。
夜明け前の闇が一番暗い。
そんな言葉もあります。きついことや辛いことがあってもそれはきっと何かのサイン。良くなる一歩手前。宇宙的視野に立てば良くなる途中。肯定的意図で考えればきついことやつらいことはむしろ感謝すべきこと。それで強い自分になれるのですから。
今日から3連休。体力を回復してしっかり子どもたちと遊びたいと思います。
昨日は朝から喉が痛くて大変でした。次第に熱も上がって昼過ぎにはぐったり。身体が動かない。リポデーとか飲んでなんとか業務をこなし夕方にはバタンキュー。4時間くらい死んだように寝たら少しすっきりしました。
もともとは3歳の長男からもらった風邪。うつされないように注意していたんですが、だっこしたり一緒に遊べばやっぱりうつります。
私の風邪はけっこう長引くことが多い。3連休は家でじっと過ごすのかなあかとか考えていましたが、ぐっすり寝たら意外と元気なのでほっとしています。これも滝行の効果かも。
小さい子がいる家庭ってこういう時は大変です。誰かが風邪を引くと家族みんなにうつる。我が家の発信源は3歳のゆう。ゆうが風邪を幼稚園でもらってきて、それを9ヶ月の妹にをうつし、その後母親にうつす。私にはうつらないと根拠もなく思っていたのですが最後の最後に私も発症。結局家族全員風邪をひきました。

よりよく生きるための重要な考え方に肯定的意図というのがあります。起きること全てに肯定的意図があるという考え方。一見すると良くないことであっても、そこには必ず肯定的な意味がある。現象だけをみればマイナスにしか見えなくても全体的・全宇宙的に見れば肯定的な意図が必ずある。宇宙の計らいとか神の意図とでも言うべきものがあるという考え方。
そこから考えると私が風邪を引いたのもきっと何かのサイン。「この状態にはどんな肯定的意図があるんだろう」と考えているとまずは最近の激務が頭をよぎりました。ここのところ仕事やら何やらにハードに追われる日々。こなす割には仕事が減らず逆に増える始末。ちょっとバテ気味でした。要するに「頑張りすぎだからちょっと休め」ということだったのでしょう。ちょうど身体を壊す前に休まないとなあと思っていたところでした。
物事が良くなる前には一時的に悪くなることがある。
夜明け前の闇が一番暗い。
そんな言葉もあります。きついことや辛いことがあってもそれはきっと何かのサイン。良くなる一歩手前。宇宙的視野に立てば良くなる途中。肯定的意図で考えればきついことやつらいことはむしろ感謝すべきこと。それで強い自分になれるのですから。
今日から3連休。体力を回復してしっかり子どもたちと遊びたいと思います。